【社会の残酷な現実を暴露】社畜になりたくなければ自分がやりたいことを必死に探せ

社会の現実

こんにちは。うつ病ブロガーのだいだいです。

昨今、この国日本では、労働によって精神を病み、命までもが奪われる事態が多発しています。

たとえば、某大手広告代理店で発生した過労死事件。

戦後すぐの時代と比べると、さまざまな分野で技術が発達し、モノも増え、経済的に豊かになったにもかかわらず、一般に労働者と呼ばれる人たちの仕事は楽になるどころか、どんどん過酷なものになっているとさえ感じます。

「過労死」の他にも、日本では「長時間労働」、「サービス残業」、「賃金未払い」、「深夜のワンオペ営業」、「ブラックバイト」、「派遣切り」・・・などなど、労働に関する問題は大きな社会問題となっており、そんな社会で生活する人々は、いつこれらの問題が自分の身に降りかかって来ないか怯え、疲弊しながら日々働いている人が多いのではないでしょうか。

それでも、この国で労働者と言われる人々は「今日も会社に行かなくては・・・」と思い、死んだような目をして満員電車に揺られ、家と会社を往復している人がほとんどです。

しかしながら、そんな人々に

「そんなに辛くて嫌ならば、会社なんて辞めれば?」

と言うと

「そんなこと簡単にできるわけがないだろ!それができればとっくに辞めてるわ!」

と声を大にして反対されることでしょう。

でも、僕は人々がそう言うのも、よくよく考えてみると当然のことなんだなと、今では思います。

その理由は、実際に過去の僕がそうであったし、僕たち日本人は「そう」思うように育てられているからなんです。

今回お話する内容は、あなたにとってどうかは僕には分かりませんが、人によっては残酷な内容かもしれません。

でも、日本人全員をはじめ、特に僕らと同じ世代か、それより下の、これからの社会の担い手となる若い人には、よく考えてもらいたい内容です。

目次

勉強して就職することだけが目的だった僕の人生

「いっぱい勉強して、いい学校に行って、いい会社に就職すれば幸せになれる」

これはこの国日本で今でも信じられている「人生の幸福論」の一つ。

それなりのお金と幸せを手に入れるために、給料が少しでも高い会社に就職し、そこでマジメに一生懸命働く。

これが、この国の、これまで、幸せな人生を送るための揺るがないただ一つの王道であり、誰もが信じてきた典型的な「幸せのカタチ」でした。

しかし、僕は断言します。未だにこれだけを信じている人は、将来、幸せに暮らしている可能性はかなり低いです。

というのも、僕も例外ではなく、子どもの頃から「勉強しなさい!」と周りの大人たちに言われ続け、大学まで卒業することができました。

そして、いざ会社に就職して社会人と呼ばれる大人になってみると、僕が思っていた(というか思わされていた)「幸せのカタチ」というものはどこにもありませんでした。

それこそ冒頭に書いたような長時間労働とサービス残業が毎日続く日々。

休みという休みはほとんどなく、家には寝に帰ってくるだけ。

たまにある休みの日でさえ、会社から次の仕事の連絡が電話でかかってくるし、何より疲れた身体を休ませるのが精一杯でした。

それでも「しんどい」、「辛い」などと言うと、周囲からは「そんなことぐらいで情けない」だとか、「みんなしんどくても頑張っている」と非難され、立ち止まることさえ許されないのが世間の雰囲気。

そんな生活を続けていると、自分でも分からないうちに精神を病み、気づいた時にはうつ病になっていました。

幸せになるために子どもの頃から頑張って勉強していたはずなのに、勉強して就職することだけを目的にしていた人生では、幸せになれるどころか幸せからはどんどんと遠ざかっていくのを実感することになったのです。

どんなに優秀な人でも脱線すれば一瞬で「社会のお荷物」

冒頭にも書いた某広告代理店で働いていた新入社員の女性。

彼女は学歴も、容姿も、そして就職した会社も日本ではトップクラスの会社でした。

このように、まさに「幸せな人生への王道」を歩いていたはずの彼女が、労働の恐怖によって自ら命を絶ってしまいました。

これが、誰もが知る日本の大企業で起こったということも驚きですが、僕がもっと驚いたのは、今はこの世にいない彼女に対して、

「もっと長い時間働いている人もいる」

「ただ根性がないだけ」

「これだから今の若いもんは」

などと、加害者である会社側ではなく、被害者である彼女を非難する声が上がっていたことです。

これらは僕が実際にネット上で見かけた書き込みなのですが、こんな書き込みを見て、

「これが、自ら死を選んでしまうほど、精神を追い詰められた人にかけられる言葉なのか!?」

と僕は目を疑いました。

勉強も、就活も、そして仕事も、誰よりも「いい点」を取ろうとして一生懸命頑張ってきた彼女は、一度、そのエリートコースという線路を脱線したことで、死んでからも世間から責められる「社会のお荷物」として扱われるようになってしまったのです。

こんな心無い言葉が彼女に浴びせられる中で、僕はこんな風にも思いました。

「日本人というのは『労働』という宗教にすっかり洗脳されてしまった人々の集まりなんだな」

と。

労働者は自分ではなく他の誰かのために働いている

動物

資本主義の本質

別に隠すことでも何でもないのでこの際はっきり言いますが、この日本という国で自分のために働けている労働者なんていうのはほとんどいません。

そう言うと「家族のためだろ!」と答える人もいますが、本質的には全然違います。

その答えはあなたが勤めている会社の経営者や、会社の株主のためだと断言できます。

なぜならば、この国日本は「資本主義」という経済システムで成り立っているからです。

資本主義の下では、国民は誰もが金銭等の利潤を追求してもいいですし、利潤追求のための生産手段を個人で保有することも許されています。

要するに、資本主義とは何かざっくりと説明すると、誰もが法に触れない限り、どんな手段を使ってでも金儲けしてOKだよ。ということなんです。

しかし、今までは実際にこれができるのは、失敗してもリスクが許容できるであろう、お金に余裕のある富裕層の人たちだけでした。

それ以外の、お金に余裕のない人々は資本家の下で働いて、生きるための糧を手に入れなければ生活すらすることができません。

ああ、なんて資本主義という世界は不公平なのでしょうか。

でも、実際これが現実なんです。

ここは大事なことなのでよく考えてもらいたいことなのですが、雇われるということは、「生産手段」として会社の経営者や株主たちの所有品、すなわち彼らの「手足」になるということです。

実際に会社法という法律では「正社員」とは会社で働く社員のことではなく、株主のことで、雇用する労働者はただの「使用人」と表記されていますからね。

このような「使用人」としての労働者に求められるのは、ただただ会社や株主のために一生懸命働くことのみです。

労働の現場では、すべこべ文句も言わず、なるべく低賃金で、自分の生活さえも犠牲にして会社の仕事だけに懸命に取り組む人間、そういう人が経営者にとっては都合がよく、実際に評価もされます。

さらには、法律で守られているはずの労働者の権利や個人の尊厳なども、建前では守っているとしつつも、どの会社も実際には守られていないから、冒頭にも上げた労働上の問題が社会問題化しているわけです。

ここまで読んで「そんなアホらしい」と思った方もいるかもしれませんが、多くの労働者は冒頭に書いたように、不満を抱きつつも、こういう「奴隷構造」を受け入れてしまっています。

いや「そうやって受け入れるように教育されてきた」と言った方が正しいのかもしれません。

お金の稼ぎ方を教えてもらえない日本人

「みんな一緒が当然」を押し付ける学校教育

僕たち日本人が社会に出るまでに、学校という教育現場で学ばされる国語や算数・数学、理科、社会、英語、体育などといった勉強の中身というのは知識以外では、「与えられた環境で、与えられた課題や義務を文句を言わずにこなす力」だけです。

みんなと一緒に授業を受けて、先生の言うことには必ず従い、授業では教科書の内容を暗記して、テストでいい点を取る。

そんな日本の学校教育では、みんなと同じである「同調」と、偉い人の言うことは絶対に聞く「従順」が評価の対象であり、少しでも他の「みんな」と違う行動をすると、「この子はダメだ」と問題児扱いされてしまいます。

このような長年の学校教育の結果、自我を持たない画一的な人間が生成されるのです。

「エサをくれる人」に依存する日本人

さらに僕たちは、社会に出るまでに「労働以外のお金の稼ぎ方」というものを一切教えられません。

人間に限らず、動物というものは、独り立ちする前に親から生きるために必要な「エサの獲り方」を学びます。

しかし、日本の学校教育は、「エサの獲り方」ではなく「エサを獲れる人間に仕えるための方法」ばかり教えられているので、人が生存するために最低限必要な能力というものは全くと言っていいほど教えられません。

それはなぜかというと、日本はしばらく「資本家に雇ってもらい、給料をもらって生きていくことが前提となっている社会であるから」です。

自分でエサを獲得できない人たちが取るたった一つの選択肢

そうなると、こんな状況で社会に出るときに、人間がとる選択肢はたった一つ。

住居の維持や食料の獲得をするために必要なお金を自らの手に入れるため、お金をたくさん獲得できる能力がある会社に自ら赴き、

「自分はこんなことができます!!」

と猛アピールし、会社の役員をはじめ、資本家に気に入られるために必死に頑張るのが、現代の就活ならぬ「就社活動」です。

そして、もし会社を追い出されてしまえば、給料がなくなり、食い扶持の確保が困難になってしまいます。

さらに、この日本では一度レールを脱線した人間に対する対応は、上記の過労死の件でみてきたとおり、非常に厳しいものだから、退職の理由が何であれ、無職の人というのは、「上からの命令に従順できない、奴隷としての教育がうまくいかなかった失敗作」との烙印を押されてしまいます。

だから、労働者というものは、何がなんでも今いる会社にしがみつき、どんな理不尽な扱いをされようとも、今日、明日を生きるために必死に資本家に喰らいつき働くのです。

日本社会が過労死のように、労働によって死者まで出る世の中になったのは、日本という社会が「何でも言うことを聞く奴隷向きの人間」ばかりを作る教育システムを作り、それを時代に合わせて改善することなく何十年も続けてきたからだと僕は思います。

大人世代がこれに気付かず、または気づいていても、労働者という立場に甘んじて、いつまでも資本家のおこぼれを得ることができるぬるま湯に慣れてしまったから、日本は「Karoshi」が蔓延する、世界で一番働きにくい国になってしまったのではないのでしょうか。

本当の自分の人生を生きるにはやりたいことを見つけること

僕が長々ここまで書いてきたことは、こうやって記事にして説明しなくても、実はうすうす気づいている人の方が多くて、ほとんどの人は「資本主義はそういうものだから仕方ない」と諦めていることでしょう。

でも、自分が奴隷であると気づくまでの時間はどうあがいても戻ることはありません。

僕は今回、社会や学校、親や先生が推奨している教えというのは、多かれ少なかれ「あなたを労働させるための奴隷教育」という側面があるという事実を知ってもらいたくてここまで書いてきました。

じゃあ、奴隷のまま社畜として生きていくのか、「いやいや、そんなのはまっぴらごめんだ!」と思うのであれば僕はあなたに、

「人生においてやり遂げたいことを一つでもいいから見つけろ」

とだけ伝えておきたいです。

これまでに見てきた資本主義の仕組みから言うと、人に使われるのが嫌で、社畜として一生過ごすのがどうしても我慢ならないのであれば、「自分のやりたいことを見つけたうえ、そのやりたいことで自分ひとりのエサに最低限困らないぐらいのお金を稼げるように努力しろ」ということです。

学校の、社畜労働者になるための勉強や努力はそこそこにしておいて、その代わりに自分が興味のあることをや面白いと思ったことを突き詰めて行動していってほしいと思います。

そして、その興味のあることや、楽しい・面白いといったことが、「どうすればお金につながるか」、それをひたすらに考えていってほしいです。

その上で「お金につなげるために」勉強が必要だと思えば、大学や専門学校に行くのもアリですし、本当に大切なことは、「何のために勉強して、実際に勉強したことを幸せな人生を送るためにどう生かすのか」ということだと思うんです。

〈補足〉それでもやりたいことなんてないと言う人へ

長い記事ですのでここで終わろうとも思ったのですが、「やりたいことがない」と言う人は労働者としての人生を選ぶのも一つの選択肢だと思います。

だけれども、それには覚悟も必要です。

このような受動的な生き方で待っている人生というものは、本当の意味で「他人のために生きる人生」であるということは断言しておきます。

具体的には、住む場所も、働く時間も、仕事内容でさえも、全て他人に決められるということを意味します。

それは、他人に気に入られるための人生であり、究極的には、その人に自らの命を預けているのとなんら変わりはないということです。

最後まで読んでいただけたあなたには、将来、僕と同じような後悔をすることがないように、よく考えて将来の進路を決めていただければ幸いです。

長くなりましたが今回のお話は以上です。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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