僕がうつ病になるまでの過程

過程

当記事について

当記事は筆者の当時の体験談をまとめたものです。そのため、ブログリニューアル後も本文については編集や追記を行っていません。

こんにちは。だいだいです。

この記事では僕がうつ病になるまでの過程について書いてみようと思います。

少しつらいですが、症状もようやく落ち着いてきたので過去の自分を振り返ってみようと思います。

「まさか自分がうつ病になるなんて…」

「うつ病なんてただの甘えだ。」

うつ病になる前の僕はそう思っていました。

目次

2015年4月

期待と不安で満ち溢れた2015年4月。いや、不安の方が大きかったと思う。

僕は新卒の新入社員として通勤に自宅から片道2時間かかる警備会社に就職しました。

もともと自称コミュ障で友達も少なく人づきあいも下手であった自分。

果たしてこれから会社でうまいことやっていけるのか。

入社式の後の2週間は研修が続きました。

新入社員研修と警備業法で定められた新任研修。

それが終わるとすぐに現場に配属されました。

すると上に書いたような心配はすぐに吹き飛びました。

僕が初めて警備員として配属された現場はオープニングしたばかりの駅前の商業施設でしたが、先輩も現場の方も優しく教えて下さり、そのような心配はなくなりました。

業務内容は体力的に大変でしたが、仕事にやりがいも感じており「慣れてくると大丈夫」、「これならやっていける」と確信していました。

2015年5月

ゴールデンウイークは自分が隊長(リーダー)として任されます。

大型商業施設のイベントの警備を担当することになりました。

自分が、同期の子やアルバイトの子の交代や休憩時間の管理、また、施設の方と連絡を取り合い業務を遂行するという立場になり、しんどいながらも仕事に対して強くやりがいを持っていたのはこのころでした。

このころは代休もしっかりあり、疲れた分の身体を休ませることができました。

5月からは社長のいろいろな現場を体験して経験を積んでほしいという方針から、スーパーの駐車場や工事現場などいろいろな所へ配属されました。

5月の後半は泊りがけでゴルフ場の警備に行くことになりました。

ゴルフ場の警備は朝とても早い時間からの業務でしたが、僕は朝起きるのも得意だと思っていたし、若いから少々無理しても大丈夫だろうと思っていました。

先輩や同業他社の方など一緒に仕事をする方もいい人ばかりで、また社長も自ら業務を行うなど恵まれているなあと感じました。

またこのころ警備業務検定の試験を受けるという話もでてきました。

2015年6月

地獄の生活が始まったのはこのころからでした。

ゴルフ場の警備による泊まりかけの勤務が続き、なんと宿泊するのは上司の家でした。

4月と5月はホテルや宿を用意してくれていたのに。

食事もお風呂の時間も管理されプライベートなんてものは一切なかったのです。

勤務時間は朝5時から夜の7時まで。これが5日間続きました。

さらに休みが試験の講習に充てられ6月中旬には9連勤が続く予定でした。

毎日のようにサービス残業も続き、プライベートの時間はほとんどなく、家には寝て帰るだけという僕にとって地獄の日々が始まりました。

過換気症候群で倒れる

8連勤目の日。前日は試験の事前講習。

この日は午後から新入社員研修で夕方には終わって解散だと思っていたのですが、本社に引き戻され上司と飲み会に行くことになりました。

お開きになる直前に社長も現れ、来週に控える試験に合格してこいと上司からプレッシャーをかけられました。

結局、飲み会が終わったのは夜10時過ぎ。僕はお酒も入って帰りの電車でふらふらになり、「明日は工事現場だから4時に起きないと」と思いながら自宅を目指しましたが、限界がきました。

終電近くの電車。運悪くこの日は昼間に人身事故が発生しており、電車の時間が遅れていたうえ、電車の編成数が少なくなっており車内は満員に近い状態で座席に座ることができなかったのです。

「明日は4時起き。このままだと2時間しか眠れない。」

そう思うと身体が痺れて感覚がなくなり、過換気症候群を起こして車内で倒れてしまいました。

次の停車駅で同期の子と駅員さんに介抱され駅長室に運ばれた僕。

「次の電車が最終になる」と駅員さんに言われ、感覚のない身体を振り絞りみんなに介抱されつつ帰りの電車に乗ることができました。

同期の子が家に電話をかけてくれたので、駅では母が待機しており、過換気が収まるまで母が介抱してくれました。

「眠る時間がない。」

「眠るための休みが欲しい。」

今から思うとここで会社を辞めておいたら良かったと後悔の念でいっぱいです。

しかしせっかく就活も頑張って正社員になれた。ここで辞めると3か月で辞めたという事実が一生つきまとう。このご時世、もしここで辞めると次の就職先なんて見つからないだろう。そもそもあんなにつらかった就活をまたしたくない。

それならしんどいながらも頑張らないと、みんなも頑張っている、自分だけ甘えているのでは、慣れてくるまでの辛抱だ。

そう自分に言い聞かせて働き続けることを決意しました。

次の日は休んで病院に行き3日間休養するように言われました。原因は過労でしたが、試験も迫っているということもあり、ゆっくり休むこともままならなくなり勉強に勤しみました。

この時期から不眠症状が現れてきました。

6月後半、スーパーの駐車場に配属された日は業務が忙しく考えている間もなかったのですが、工事現場に配属された時は暇なので「なんでこんなことして働いているのだろう。」と思うようになりました。

今から思うと5月の仕事にやる気とやりがいを感じていた時の僕はもう失われていたんだと思います。

家族や親戚には僕が妙にたくさん話すようになり、お金の羽振りもよくなったと言われていました。

疲れているはずなのに夜はほとんど眠れないという状態が続きました。

2015年7月

季節は七夕。

母がボケ防止のために毎年七夕飾りを作っているのですが、そこに僕が書いたお願いごとは「休みが欲しい」だったそうです。

そして7月から配属先が変わりました。大型商業施設の駐車場の誘導が主な業務となりました。

ここの上司や先輩の方は本当に親切で優しい人が多く、また休日も週休2日制というシフト制、そして給料が他の現場より高いと聞いていたので僕のモチベーションは少し回復しました。

この現場の上司の方は分からないことはゼロから教えて下さり、ほんとにお世話になったと思っています。

また今まではいろんな現場に回されていましたが、これから3か月は固定でこの施設での勤務と会社から言われていたので一度業務内容を覚えてしまったら後は楽だと思い、3か月は頑張ってみようと思いました。

ちょうど業務にも慣れてきた頃でした。

会社側から人手不足のため違う現場に行ってほしいとの連絡が。

そして届いた給料明細を見ると先月休んだ分で給料が大幅に下げられていました。

決定的な出来事

相変わらず不眠が続く中、僕に明らかな異常が現れたのは7月の中旬のある日のことでした。

試験の結果が発表されたあの日。

新入社員は僕を含めて3人試験を受けていたのですが、僕だけ落ちてしまったのです。

「あれだけ勉強もして自信満々だったのに。」

「会社の人も実技試験で落ちることはめったにないと言っていたのに。」

「なぜ僕だけ落ちたのだろうか…」

この結果を知ってから僕は涙が止まらなくなりました。

しかし明日は仕事。最後の大型商業施設での業務。そして明後日は本社に行かなくてはならない。

母に相談し「明日一日だけ頑張ろう」「警備員をするのは明日で最後」と決心。

台風が接近している中、僕はいつも通りに出勤しました。

「いっしょに働いている人に心配をかけたくない。」

業務中は普通のように振る舞っていた僕でしたが、休憩中、休憩室の中で一人でいる時は涙をこらえることができませんでした。

「次の日は本社に行かなくてはいけない。」「試験に落ちた自分がどんな顔して会社に行けばよいのだろう。」

帰りの駅のプラットホーム。もしあの駅が列車の通過駅だったら線路に身を投げ出していたと思う。

それほど追い込まれた状態だったんだなと思う。

電車の中では母からのメールに励まされながら人目も気にせずに泣いて泣いて泣いて泣いて泣き続けました。

人生であんなに泣いたのは初めてだったと思う。

次の日の朝、出勤できない旨を電話で会社に連絡すると本社の社員から怒号が。

母によると僕はそこでうなだれて倒れたそうです。

すぐに母が近くの心療内科を探してくれてそこで診断されたのがうつ病でした。

こうして僕は22歳の夏、新入社員として入社した4か月後にうつ病になりました。

 

診断書
「うつ状態」と診断された当時の診断書。当初は1か月間の自宅休養が必要だと診断された。
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