※この記事は筆者が以前公開していた記事をリライトしたものです。
「いい学校に行って、いい会社に入れば幸せになれる」
かつての日本には、そんな分かりやすい“未来”がありました。
でも今は違います。
どれだけ頑張っても必ずしも報われるとは限らない。
むしろ空回りしてしまい、疲れてしまう人も多いのではないでしょうか。
僕自身もそう感じてきました。
だからこそこう思うのです。
これからは、「他人の基準ではなく“自分にとっての幸せ”を見つけて育てていくこと」が大切であると。
今回はそんなお話です。
目次
戦後の「みんなが同じゴール」を目指せた時代
戦後の日本は、まさに焼け野原からのスタートでした。
街には瓦礫が残り、食べるものにも困る人が多かった。
でも、だからこそ「もっと豊かに生きたい!」という願いは国中に広がっていました。
何もないところから未来を築こうとする力強さがありました。
当時は「とにかく働けば暮らしが良くなる」と誰もが信じていて、努力すればそれが叶う時代。
たとえば、
- 工場で懸命に働けば、翌年には家電が買えた
- ボーナスを貯めて、家族旅行や車の購入ができた
- 頑張ればマイホームの夢も叶った
しかも、それは一部の人だけでなく「誰もがそこそこ頑張れば手が届く」ものでした。
このように国全体が同じゴールを目指し、一体感もあった。
「明日はもっと良くなる」という“輝かしい未来への希望”を、多くの人が自然に抱けた時代でした。
物は満ち溢れても希望が見えにくい現代
でも今はどうでしょうか。
たしかに、戦後とは比べ物にならないくらい物質的にはとても豊かな時代になりました。
飢えることはほとんどなく、衣食住はもちろん、生活に必要なものは十分に満たされています。
コンビニに行けば食べ物は24時間いつでも手に入り、インターネットでも何でも買える。
冷暖房も整い、スマホひとつで世界中の情報にアクセスできる。
これ以上の便利さや快適さを、果たしてどこまで求められるでしょうか。
このように現代は「これ以上豊かになる余地はもう少ない」のが現実です。
その一方で、社会の競争はどんどん激しくなりました。
子どもの頃から塾に通い、偏差値の高い学校を目指す。
大人になると誰もが正社員を目指します。
ですが希望すればみんながみんな正社員になれるわけではありません。
正社員と非正規社員で待遇が異なることで格差も広がり、さらには職につけないニートや引きこもりも社会問題にされています。
でもその競争にも、すでに限界が見えてきています。
あなたも薄々こう感じているのではないでしょうか?
- 頑張っても報われるのはほんの一部
- 結局は「資本」や「人脈」を持っている人が有利
- 何も持たない個人が一人で努力しても限界がある
たとえば、いくら真面目に働いても給料は思うように上がらず、物価や税金は上昇し続ける。
努力すればするほど余裕がなくなり、「報われない」と感じやすくなるのです。
こうして「頑張れば幸せになれる」という確信は失われていきました。
物質的には満たされていても、心が豊かになれないのはこのためです。
僕自身も報われず、うつ病になった
ここで少し、僕自身の体験をお話しさせてください。
僕もかつては「頑張れば報われる」と信じていました。
だから毎日遅くまで働き、休みの日も仕事のことが頭から離れないほど必死に頑張っていました。
「もっと稼げば家族を安心させられる」
「もっと成果を出せば認めてもらえる」
そう信じて無理を続けていたのです。
でも、気づけば心も体も限界を超えていました。
朝は布団から出られず、仕事に行こうとすると吐き気がする。
好きだった趣味にも手が伸びず、ただ横になるしかできない。
結果、僕はうつ病になってしまいました。
「頑張れば幸せになれるはず」
そう信じて頑張り続けたのに、手に入ったのは“幸せ”ではなく“病気”だったのです。
この経験を通して、僕ははっきりと気づきました。
「誰かが決めた幸せの基準に合わせて頑張っても、自分にとっての幸せにはつながらない」のだと。
幸せの形はひとつじゃない。人の数だけ「幸せの形」がある
そんな中、僕はある時、気づきました。
「誰かが決めた“幸せの型”に合わせなくてもいいんだ」と。
うつ病で寝込んでいたとき、色んな人のブログを読んで分かったことがあります。
たとえば、
- 出世を選ばず、毎日定時で帰り子どもと夕食を楽しむ人
- マイホームを買わず、賃貸で身軽に暮らしながら旅行を楽しむ人
- 高収入ではないけれど、好きな趣味を仕事にして楽しそうに生きる人
彼らを見て思ったのです。
「幸せの形は、人の数だけある」と。
結婚や出世、マイホームといった“昔ながらの幸せのテンプレート”に従う必要はもうないんだということに。
日常の中に隠れている幸せ
じゃあ、自分にとっての幸せはどう見つければいいのか?
僕は「日常の小さな瞬間」に目を向けるようになりました。
たとえば、
- 綺麗な夕焼けを見て、思わず立ち止まった時
- 散歩に出かけて季節の移ろいを感じた時
- SNSでいいねをもらったりブログの記事を読んでもらえた時
- 美味しいものを食べている時
大きな成功や誰かからの承認がなくても、心が満たされる瞬間はたしかにある。
幸せは頑張って手に入れるものでも特別な出来事でもなく、日常の中に散りばめられているのだと気づいたのです。
あなたへの問いかけ
ここで、あなたに問いかけたいです。
- あなたはどんな瞬間に「ちょっと幸せだな」と思いますか?
- その幸せは、誰かに認められるためのものですか?
- もし他人の基準に合わせなくてもいいとしたら、どんな暮らしを選びたいですか?
答えはすぐに出なくても構いません。
でも、こうして考えてみることが、自分なりの幸せを追求する第一歩になるはずです。
まとめ
- 戦後は「頑張れば報われる」時代だった。みんなが同じゴールを目指し、未来への希望があった。
- 今は物が満ち溢れていても「未来への希望」が描きにくく、努力して報われるのはほんの一部。何も持たない個人が一人で頑張るだけでは限界がある。
- だからこそ、他人の基準ではなく「自分にとっての幸せ」を決めることが大切。
- 幸せは特別なものではなく、日常の小さな瞬間の中に隠れている。
最後に、この記事をここまで読んでくださったあなたへ。
僕もまだ答えを探している途中です。
だけどこうやって文章を書きながら自分なりの幸せをイメージすることで、本当の幸せに近づけていけると信じています。
だから一緒に「自分にとっての幸せ」を見つけていけたら嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。